防災・減災への指針 一人一話

2013年11月11日
自助・共助の大切さ
多賀城市 八幡上二区長
原 義夫さん

各区長が集まっての情報交換の効果

(聞き手)
 発災時の状況について詳しく教えてください。

(原様)
発災時は、入退院を繰り返していて介護が必要な妻と犬と私とで自宅にいました。
自宅には掘り炬燵があったので、そこに潜りこむような体勢で揺れが静まるのを待ちました。
私は地震が起きると数を数えてしまう癖があって、大抵は30数える前に収まるのですが、今回はなかなか止まらないので大きい揺れになると思い、妻に頭を炬燵の中へ入れるよう指示しました。
そのうちに揺れは収まり、表通りに近所の奥さんたちが出てきて、色々と喋っている声が聞こえてきました。
私も出て行って話をしたところ、津波が来るという話になりました。そのうち「津波だ」との声が聞こえたので、すぐに家に飛び込んで、歩行が困難な妻と犬を自宅2階に上げました。
2階に上がりきる手前で振り返ってみたら、もう階段途中まで水が来ていたので、そのまま2階の部屋に転がるように入りました。
そこで、ふと外を見たところ、家の前の道を、仙台港に陸揚げされた、まだナンバープレートも付いていない車が、まるで笹舟のように流れていきました。
翌日には、積み重なった車があちこちに見られました。
実はその後の3日分ほどの記憶が、点では思い出せるのですが、線では思い出せないのです。
比較的鮮明に思い出せるのは、区長として自分の町内の被災状況を、近所の役員さんと手分けして回ったことが断片的に思い出せる程度です。
あまりの衝撃に、一種の記憶喪失になったのかもしれません。

(聞き手)
区長として苦労されたことは覚えておられますか。

(原様)
 特にありませんが、14日ごろから、八幡の5区の区長が毎朝、避難所になっていた八幡公民館に集まって、各地区の報告や情報交換が続いていたことは覚えています。ただ、カメラも手帳もなく、映像での記録なども残していません。

(聞き手)
その集まりではどのようなお話をされたのでしょうか。

(原様)
 自分の地区の状況がどうだったか、何を行なったか、地区の状況などを確認し、市職員と一緒に状況の報告などの情報交換をしていました。八幡の全ての地区の状況を理解するのにとても役に立ちました。
また、給水車が何時に来るかというような話もしました。発災3~4日後から、私たちの地区にも救援の食糧が届くようになりましたが、最初の頃は量が非常に少なかったです。私の地区の方は、八幡小学校など市内各所に避難されていました。
 そろそろ震災から3年が経ちますので、当時を改めて思い起こしてもらうためのアンケートを取ろうかと考えています。八幡5区のうち、私の区は若い人が比較的多いのです。昭和50年代にできた町で、平成3年に分区した当時は二百数十世帯、現在は五百六十世帯ほどです。若い方はほとんどお勤めに出ていて、震災が起きた時に地区に残っていたのは、高齢の方たちだったと思います。

(聞き手)
その中で何か苦労されたこと、大変だったことはありますか。

(原様)
 機械的な生活をしていたような気がします。朝起きて、水がないのでウェットティッシュで顔を拭き、区長会議に出ていました。
毎日朝・夕の2回、八幡公民館に届けられる食糧を配布して、それ以外の時間は、津波でだめになった家財道具の廃棄をし、夕食を食べて寝る毎日でした。電気もなかったので、規則正しいと言えば規則正しい生活だったのかもしれません。

(聞き手)
在宅避難者へも支援物資を配っていたのでしょうか。

(原様)
 はい、昼・夕の2回50~60人の皆さんに配布しました。ただ、支援物資は本当に不足していました。最初は人数分のおにぎりすら届けられませんでしたので、1世帯1個と決めて配布しました。「足りないのは分かりますが、また半日経てば食糧が届くから、半日ずつ命を繋いでいきましょう」と言って配りました。
区長として強制的に決定しましたが、それくらい強引に判断しないと駄目だと私は思いました。
 それからもう1つ、友人たちが2日後くらいから様子を見に来てくれて、支援を受ける事ができました。
また、少しばかりですが、自分でも、乾パンや飲み水・缶詰の備蓄があったので、比較的心強い思いでいられました。

(聞き手)
地区の住民の方へは、どのように物資を配ったのでしょうか。

(原様)
 地区内は歩いて配りました。班員に口頭で伝えて、それを、他の人にも広めてもらうようにしていました。
毎日言って回っていたわけではありませんでしたが、皆さんが自然と集会所へ集まって来ました。
伝達事項は、自分の家の生け垣に張り出しておきました。
できることを確実にやることと、できないことにはエネルギーを消耗させない、その程度のことしかできませんでした。
家族内に要介護者を抱えているということが、少しだけ大変でした。
 地域の防災を考えるのであれば、何と言ってもまずは自助努力です。その次に「向こう3軒両隣」で共助すれば、あとはその輪がどんどん広がります。

自助、共助の大切さを実感

(聞き手)
今後の課題は何かございますか。

(原様)
 何が大事かと言えば、まずは各自が最低3日から1週間分の水と食べ物を用意しておくことです。これだけあれば、ひとまずはしのげます。水と電気とガスがあれば、それだけで人間は幸せだと私は思うのです。  当時、何日かぶりに入浴できた時は極楽だと感じました。
 それから、電気があることのありがたみも改めて噛みしめました。
終戦前後を経験してきているので、灯火管制や停電で電気のない暮らしには慣れていたつもりでしたが、やはり、電気はありがたいものでした。

(聞き手)
戦争と津波を経験された方としての思いをお聞かせください。

(原様)
空襲と津波の2度の地獄を見ると、変な度胸がつくのでしょう。
ただ、自助の大事さはしみじみ感じましたし、向こう3軒両隣との共助の大事さも痛感しました。自助共助は当たり前と言えば当たり前のことですね。
ですから、わずかばかりでも備蓄してあった物があって、こんなに役立ったことは他にありません。買い置きしていて良かったと思いました。

(聞き手)
大分前から備蓄してあったのでしょうか。

(原様)
水・非常食・乾パンを、大分前から用意してありました。防災会を立ち上げた時に、防災の話が色々と出てきまして、その時に用意しました。立ち上げたうちの一人なので、最低限のことはしなくてはいけないだろうと思い、真空状態の乾パンをひと缶、それと簡単なご飯類などを用意していました。後者の方は残念なことに泥に浸かってしまって、食べられませんでした。水に関しては、物置の上の方に密封されたものを置いておいたので、問題なく使用できました。
 ですが、家の構造として、日本家屋は色々と問題が起きました。
例えば2段の押入れなどは、1段目がある程度水に浸かってしまうと、それを吸い上げてしまって、2段目まで駄目になってしまいます。
以前、水害があった時も畳の上まで浸水したことがありましたが、その時は水道が使えたので、すぐに泥を洗い流すことができました。ところが今回はそうは行かず、たっぷり塩分を含んだ泥がそっくり残ってしまい、家じゅうが塩漬けになってしまいました。重石にかかった漬物と同じ状態です。
少しでも塩を含んだ泥に浸かってしまったものは、衣類から金槌に至るまで、全て捨てるしかありませんでした。思い切って断捨離して、今は清々しい気分です。今の私の強みは、失うものは、もう何もないということです。妻は、一足先に逝ってしまいました。

(聞き手)
奥様は、震災に関連して亡くなられたのでしょうか。

(原様)
 当時、妻は入退院を繰り返していましたが、震災時には帰宅していました。
自宅2階に避難させた後、仙台にいる娘のところに避難させました。ところが1週間もすると、妻が余震の怖さに耐えられなくなりました。日中一人で、あまり動けないでいるところに余震が来るので、自宅に戻りました。
ところが、自宅は2階にトイレがないので、その時には私が妻を抱えながら下りたり上がったりしていました。
そうしている間にまた入院してしまい、医師の見立てよりも2~3カ月早く亡くなってしまいました。
医師は、震災に伴う心労も加わったせいというようなことも言っていましたが、いずれにせよ、天の定めるところなのだと思っています。

防災に関する啓蒙活動を継続することの重要性

(聞き手)
 震災後の地域の状況を教えて頂けますか。

(原様)
 徐々に地域の方が戻ってきまして、家を建て直しています。新しいまちという感じにずいぶんとなってきました。
区長や防災リーダーの人にとって大事なことは、向こう三軒両隣の大切さを再認識して、防災に関する啓蒙活動を地道に続けていくことだと思います。思い出したくない人もいるかもしれませんが、防災に関してはこれが一番でしょう。
 少し話が脇に逸れますが、地震で避難するときに、近所のどこかに集まって列を作って、観光団のように旗を持って移動するなんていうことは考えられません。そのような避難の仕方は、現実味がありません。
いざとなったら、釜石と同じように「てんでんこ」です。
それから、多賀城市も、今回の震災で、自宅2階に逃げた住民がこんなにいたのだということを分かってもらえると、救援物資の配り方も改善されるのではないかと思います。
毎日の食糧を届けに来る時や、八幡地区の5区長が話し合う時にも市職員がいたわけですので、当時の地域の状況は、災害対策本部に通じていたのでしょうが、そういった部分を考えていってほしいと思います。

(聞き手)
震災後、防災訓練などをどのように実施していますか。

(原様)
 震災後の話ですが、平成25年11月4日に震災後初めての総合防災訓練を行いました。
あの時は各地区で行動することになっていて、発電機やトイレなどの支援物資が渡され、地区役員と一緒に、それらの扱い方を練習しました。来年はもう少し規模を大きくしたものを予定しているそうですが、防災の日には、家にどのような備蓄があるのかを家族で確認したり、不足分を買い足したり、万一の時にはどこで待ち合わせることにするか話し合う場を設けるよう呼びかけてほしいです。
そうした家族の絆があれば、「てんでんこ」で逃げることが、さらに大事になります。
とっさの時にはめいめい逃げて、事態が収まったら家族で落ち合えば良いのです。私は防災会を作った時から、まずは自分の確認、大丈夫だったら家族の確認、その次に両隣に声掛け、ということを言っています。たったこれだけの動作を徹底して身につけることが大事だと思っています。いくら知識を持っていても、いざという時にすっと頭に浮かんでくるとは考えにくいです。両隣に呼びかける時は、大声で声をかけるべきでしょう。夏に地震がありましたが、その時に近所のお年寄りのところへ行って、大きな声で呼びかけると、向こうも大声で返してくれました。それだけのことですが、これで元気が出るのです。極めて原始的なやり方ですが、大声で声を掛け合うというのは効果があります。

「生きる力」を教えることの大切さ

(聞き手)
 宮城県沖地震など、他の災害の経験はございますか。

(原様)
 昭和35年のチリ地震津波では、私は直接の被害を受けてはいません。国道45号近くの塩竈市の高台に住んでいました。津波が塩釜港に押し寄せてくるのが見え、遊覧船が陸まで運ばれたり、海岸の倉庫や造船所がぐちゃぐちゃになったりしたところを見ていたので、津波の速さと恐ろしさは分かっていました。
 宮城県沖地震の時は、宮城教育大学の青葉山キャンパス内にいました。仙台駅前まで来たところ、鉄道がすべて使えなくなっていました。バス停は黒山の人だかりで、一種のパニックになっていました。あの群衆の中に入ったら、自分もパニックになると思い、その場を離れて、気を落ちつけるために本を読みはじめました。夜になってもバスが来なかったら、多賀城市まで歩いて帰ろうと思い、バスを待ちました。暗くなってきた頃に、私の目の前に偶然バスが停まったので、それに乗って帰ってきたことはありました。
 水害では、8.5水害の時に、自宅は畳の上まで浸水しました。後の掃除は大変でしたが、水も使えましたし、電気も点いて、食べ物もあったので、あまり色々と考えることもなかったです。
学生時代から山岳部だったからかもしれませんが、空襲と津波で二度も大変な思いをしてもくじけていませんので、私は割と災難に強い方だと思います。
思いがけない経験が思いがけないところで役に立つものだと思いました。火攻め・水攻め・山歩きの経験は、これからも役立つのではないでしょうか。

(聞き手)
そういった災害を経験して、今回活かされたと思ったことはありますか。

(原様)
 比較的冷静なふりができるということくらいでしょうか。
ただ、震災のおかげで、ものの考え方が変わったような気がします。諸行無常を感じるようになったり、人間はささやかなことでもこんなに幸せと感謝を感じられるのだと思ったりするようになりました。ものは考えようと言いますが、悲観的な考え方からは、それなりに逃げることができるようになったと思います。

(聞き手)
 やはり、戦争を経験されてきたからという部分もあるのでしょうか。

(原様)
それもあるでしょう。私は、釜石の「てんでんこ」という話が実によく理解できます。
というのも、今でいう小学校の頃に防空訓練をよくやらされていました。地面に這いつくばって目と耳を押さえる訓練をしたり、防空壕を掘ったり、竹槍の訓練も受けた世代です。
ですが、いざ空襲が来たとなれば、何処の家でもただ逃げるだけでした。
その翌日に、軍隊から乾パンを一握りだけもらって、それで1日生き延びました。
夕方にはおにぎりと、沢庵一切れの支給がありましたが、あれは貴重でおいしかったです。

(聞き手)
 ご家族やご親戚などから、災害の教訓などが伝承されていましたか。

(原様)
 特にこれといったことは聞いていません。
 私は定年まで宮城教育大学のワンダーフォーゲル部の顧問をしていました。そこで、新入生に最初に教えるのは、トイレの作り方と使い方です。男女の場所をシートか何かで区別して、土を掘り、その土は必ず目の前に置いておき、用を足したらそこにスコップで土をかけるのです。テントの入り口にスコップが立っていれば入っていいという合図で、そのスコップを持って行って、帰って来たらスコップをもとの場所に立てておくというルールを作りました。
食事も、当時は今のようにインスタント食品などなかったので、飯盒飯が基本でした。否が応でもそうして育ってきたのですが、今はそれもなくなってきたので、学びたくても難しいのかもしれません。今はもうスイッチ一つで何でもできてしまうので、その点では、ある意味大変だろうと思っています。
 ですから、学校教育に地域も入った形で、何かそうしたことをやらせても良いのではないでしょうか。「生きる力」と盛んに言っていますが、実際に教えていかないと駄目だと思います。極めて原始的な生活も必要だと思いますが、あまり言い過ぎると、年寄りの戯言だと言われるかもしれませんね。

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓はありますか。

(原様)
 やはり自助、自立して生きることの大事さです。自分で立つ方の「自立」と、コントロールする「自律」がありますが、この2つを押さえて生きていくことが、ベースになるのではないかと思います。
確かに、人間には困った人を見ると助けたくなる気持ちは誰にでもあります。と同時に、自分で叫んで助けを求めることも大事なのではないでしょうか。要するに、「自立・自律」して生きたいという意志をきちっと持つことが大事なのではないかと思います。

(聞き手)
 私はもういいから逃げてくれ、と言われたのに、何とか連れて行こうとして、お互い逃げ遅れたというお話もいくつか聞きますが、それについてはいかがでしょうか。

(原様)
 その努力はとても尊いことだと思います。
ですが、そのために自分も犠牲になっていいのか、という点が非常に難しいところです。
「カルネアデスの舟板」という話にもあるように、この問題は難題です。子供、親、夫が溺れそうで、あなたが泳げるとなったら誰を一番先に助けるか。母親は、恐らく子供を最優先するでしょうし、女性としてはそれが正解なのでしょう。私の場合は、身近な人から助ける、ということにしています。ですが、これだって頭の中で考えてそう思っているだけで、実際にそうなったら、とても迷うと思います。

行政には「イメージ力」が必要

(聞き手)
多賀城市の今後の復旧復興に関して、ご意見などがあれば、教えて下さい。

(原様)
 よく聞かれますが、私は、現状に満足しています。
電気、ガスともに揃いましたし、水も出ましたので。
行政が復旧・復興を優先する姿勢さえしっかり持って頂ければ良いと思います。仮設住宅が解消される日が復旧の区切りで、そこから復興と考えています。

(聞き手)
 これまでの質問以外で、何か話しておきたいことはございますか。

(原様)
 忖度(そんたく)という言葉がありますが、事情や心情を推し量る姿勢は、失われてほしくはありません。
 命からがら逃げてきた人たちの避難に全力を挙げるのは当然ですが、そこだけに視野が止まるのでは困る気がします。
もう少し別の視点で、もしかしたらあの家にも人がいるかもしれない、こっちの家にも今日の食事に困っている人がいるかもしれない、水が足りない人がいるかもしれないと、広く目を向けてもらいたいのです。これからの行政には、「イメージ力」がよりいっそう必要になってくるでしょう。